生活に困難を抱えているほど、健康的な行動は取りにくく、健康状態が悪化しやすいと言われています。それはどうして生じるのでしょうか?まず、私が今までに出会った事例に、個人情報に配慮して修正を加えて紹介します。
診療の現場で出会う、生活困窮状態を背景に健康を損ねた事例
事例①「こどもの耳が聞こえなくなったみたい」
おたふくかぜの合併症による難聴が考えられました。家庭の経済状況が厳しく、費用が発生する自費ワクチンの接種を見送っていました。就労せねばならず、日中の受診も難しかったようです。
事例②「トイレが近くて仕事にならない、眠れない」
タクシーの運転手の仕事をしていました。糖尿病の状態は決してよくありませんが、医療費が高くなりやすいため、受診を中断しては、病状が悪化して入院していました。退院すると、入院の費用や入院しなければ稼げるはずであった収入(機会費用)を工面するために働き、外来には通院しなくなるという繰り返しでした。慢性的な高血糖の状態によって、トイレが近くなっていたのでした。
このように生活に困窮しているとき、健康的な生活を送ることや健康の維持に努めることができるでしょうか。このように社会的に健康に影響を及ぼす要因を「健康の社会的決定要因・社会的な健康規定因子(Social Determinants of Health:SDH)」と呼び、その対応が強く求められてきています。
では、生活困窮・貧困はどのように健康に悪影響をもたらすのでしょうか。その背景には、お金の不足という経済的な困難による健康の悪化だけではなく、お金がないことに起因する複合的な困難によってもたらされるストレスや認知・行動の変化が関わっています。
なぜ生活困窮・貧困は人の健康を損ねるのか
生活困窮の状態にあることは、単に健康で文化的な生活に必要な資源(食料や衣服、金銭など)が不足していることを意味しません。お金がないことをきっかけに、社会活動への参加が難しくなると、”社会関係からの排除”の状態が生じます。そんな中、「努力しないから貧困なのでは?」と解釈できるような、周囲からの(無意識的な)非難や軽蔑を受けると、「どうせ自分なんて・・・」という自己評価の低さにつながる”スティグマ”を負ってしまいます。その結果、権利の行使や自らの声を発することが難しい”パワーレス・ボイスレス”の状態が強化され、ますます”社会関係から排除”されてしまいます(図)(Lister, 2004)。
生活困窮状態にあることは、以上のプロセスからさまざまなストレスをもたらします。持続的に強いストレスにさらされている人にはある生体反応が生じます。アロスタティック負荷です。
ヒトがストレスを察知すると、そのストレスに対応するために必要な物質を産生するといった反応を示します。そのような生体反応の結果、体内で増加するコルチゾールというホルモンや、カテコラミンという物質が、血圧を上昇させ、血糖を上昇させ、感染症・がん細胞などへの免疫応答を抑制してしまいます(Guidi, 2020)。みなさんもストレスが大きいときに、ドキドキしたり、イライラしたり、ということを経験したことがあるでしょう。
このようなストレスが生活困窮・貧困の状態にある人には慢性的に生じています(Schulz, 2012)。健康に悪影響が生じるだけでなく、慢性的なストレス状態が脳のはたらきを変化させるメカニズムも起こります。
ネズミの実験では、長期的なストレスによって脳の前頭前皮質や背内側線状体が萎縮することで、目標思考行動(目標を定めた、合理的な行動=将来の健康を考えた行動)をとりづらくなることと、背外側線状体が膨張し、習慣行動が促進されることがわかっています(Dias-Ferreira, 2009)。ヒトにおいても低いストレス状態の時には目標思考行動に関係する前頭眼窩皮質や尾状核(ネズミの前頭前皮質や背内側線状体に相当)が賦活化される一方で、高いストレスに曝露されている場合に、習慣行動に関連する被殻(ネズミの背外側線状体に相当)が賦活化することが示されています(Ohira, 2011)。つまり、慢性的に高ストレス状態にある人は、脳内報酬系の中核が賦活化されることで、目の前の快楽への欲求が高まり、将来の目標に向かった行動をとりにくくなる結果、人々の行動は(健康に)合理的ではなくなってしまいます。
Scienceという雑誌に”Poverty Impedes Cognitive Function(貧困は人の認知のはたらきを阻害する)”という論文が紹介されています(Mani, et al. 2013)。生活困窮・貧困の状態にある人は、お金がない、医療費が払えないという経済的な理由だけでなく、それに伴って生じるさまざまな生体メカニズムによって今の健康を損ね、将来の健康への投資が難しくなり、今の快楽につながる喫煙や飲酒、他の健康に悪影響を及ぼす習慣行動が生じやすくなってしまうのです。
生活困窮者の健康支援に向けて
このような特性をもつ生活困窮者に「健康になりなさい」を中心としたメッセージは届きません。その背景を踏まえた健康支援の戦略を立案することが求められますが、エビデンスはまだまだ不足しています。生活保護や無料低額診療事業といった制度の利用者研究をともに進め、社会に貢献するためのエビデンスを作り、一緒に戦略を考える仲間を歓迎しています。
研究者だけで研究を完成させないことがモットーです。さまざまな立場の人(当事者や現場の支援者、政策決定者など)とともに、生活に困難を抱える人の健康支援の戦略の立案を目指していきましょう。
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